【鬼滅の刃考察】鬼は精神病を表してる?光の意味は?
鬼滅の刃、めちゃくちゃ面白いーー!!
2016年にジャンプで連載を開始した本作、2019年4月にアニメも始まって1クールを終え、ますます人気が加速していますね!
キャラクターも魅力的なんですが、惹きつけられる大きな理由の一つにこの物語での「鬼」の描かれ方があります。
鬼を倒し、鬼になってしまった妹を救う物語である『鬼滅の刃』において、鬼の存在とはいったい何を表しているのか?
今回は鬼滅の刃における鬼が、精神病を風刺しているのではないかという仮説のもと、この物語を考察してみたいと思います。
さらに、鬼を焼き殺してしまう光は何の象徴なのか、にも触れながら禰豆子が人間に戻れるのかを含めた今後の展開を予想してみます。
大いにネタバレを含みますので、ネタバレOKな方、あるいは既に15巻まで読み終えている方推奨です。それではどうぞ!
鬼とは他人を食い物にして生きる人たち
鬼滅の刃に登場する鬼は、桃太郎のように「倒しに行く。なぜなら存在するからだ。」という単純な絶対悪として描かれていません。
鬼になってしまった妹の禰豆子を人間に戻すことが主人公:炭治郎の行動指針となっていることや、炭治郎が鬼を殺すときに憐れみを抱くことから、鬼滅の刃がただの勧善懲悪的な物語でないことが分かります。
それでは鬼滅の刃における「鬼」とはいったい何なのか?
それを考えながら、たまたま鬼滅と同時期に読んでいたのが以下の本。
邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、と定義することができる。平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学ー(M・スコット・ペック)
この特徴が鬼滅の刃で描かれる鬼と共通することから、鬼滅の刃の鬼は「邪悪な人たち」を表しているように思えました。
どのような特徴なのか詳しく説明してみます。
自分の苦しみを人に押し付ける人
通常私たちは共感能力を持っており、相手が嫌がることをしてしまった時には罪悪感を抱きます。この「罪悪感」があることで、私たちは相手の嫌がる行動を戒め、相手が望む行動を選択することができます。
邪悪な人間は、自責の念つまり自分の罪、不当性、欠陥に対する苦痛を伴った認識に苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に背負わせる。自分が苦しむ代わりに他人を苦しめるのである。平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学ー(M・スコット・ペック)
なぜ鬼になるのか
「自分の問題から目を背け、人を傷つけることで生きている」
これを鬼になる、と表現してみます。
彼らはもとからそうなのか、あるいは何らかの条件が揃うと誰でも鬼になってしまうのか気になりますね。
鬼になる原因とはいったい何なのでしょうか。
『平気でうそをつく人たち』中で有力であるとされており、私自身が納得できた原因を2つに絞ってみました。
- 幼少期に何らかの理由で自己中心性を克服できなかったため
- ストレス下に置かれることで退行が起こり、克服したはずの自己中心性が露見するため
ひとつずつ説明していきます。
①自己中心性の克服が不全である
子どもが残酷な一面を持っていることはよく知られています。
その理由は、子供がまだ未発達なために自己中心的な状態だからです。
通常、愛情深い親に育てられた場合は、他人の気持ちを推し量って相手の気持ちに寄り添った行動を取れるようになります。自己中心性を克服し、「卒業」していくのです。
しかし幼少期に冷酷で愛情のない親のもとで育ったり、他の形で子供時代に精神的外傷を受けた場合、自分を守るために自己中心性が保存されると考えられています。
これは悪のシンボルである怪物(ガーゴイル)を聖堂の壁に取り付け、より大きな悪霊を寄せ付けないようにするのと似て、邪悪な親から自分自身を守るための対策なのかもしれません。
いずれにせよ自分の力ではどうしようもない子ども時代に壮絶な状況に置かれ、自己中心性を十分に克服できていないことを原因とする説明です。
②幼児後退による自己中心性の露呈
疲れている時に、つい家族に当たってしまったり、忙しくて普段より余裕がない時、注意する言葉がきつくなるという事は誰にでも経験があるかと思います。
ひどい頭痛がするなど体調を崩している時に、普段より優しくなれないだとかもそうです。
このとき何が起きているかと言うと「後退」が起こっています。
つまり獲得してきたはずの「相手を思いやる大人の行動選択」を手放し、幼稚になっているのです。
危機的状況で自分の命を優先することは種の保存の意味で機能的だと言えなくもありません。
体調の悪い時まで他の人に手を焼いて身を滅ぼしてしまえば意味がないので、切羽詰まった状況で自己中心的になることは仕方のないことなのでしょうか。
鬼に対する『鬼滅の刃』のスタンス
ここまで述べてきた「人を傷つけることで生きる人たち」に対してどう思われたでしょうか。
「自分の問題から目を背けるために人を傷つけるなんて人でなしだ」というような厳しいものから「彼らにも同情の余地がある」という擁護派まで、人によって違うはずです。
(養護派の場合は、可哀そうな目に遭った人が自分を守るためにしかたなくしている事なら許されるのか?に対する答えも必要になってきます。)
では『鬼滅の刃』は鬼に対してどのような視線を向けている物語なのか。
それを明確にしているシーンが5巻にあります。
「人を食った鬼に情けをかけるな。何十年、何百年と生きている醜い化け物だ」
殺された鬼のものだった着物を踏みつけた上官に、炭治郎が食って掛かる場面。
殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害を出さないため…もちろん俺は容赦なく鬼に刃を振るいます
だけど鬼であることに苦しみ
自らの行いを悔いている物を踏みつけにはしない
鬼は人間だったんだから
俺と同じ人間だったんだから
足をどけてください
醜い化け物なんかじゃない
鬼は虚しい生き物だ
悲しい生き物だ
人を殺して生き永らえたことは厳格に罪であるとし、しかし同時に鬼になるに至った経緯には共に悲しむ。これが鬼滅の刃における鬼に対する姿勢です。
このスタンスならば、どんなにひどい目に遭っても、いかなる理由があろうとも、人を傷つけていい理由にはならないという結論を下すことになります。
しかしその境遇と悲しみにそっと寄り添う、そんな物語ですよね。
鬼になるに至るまでの2つの分かれ道
「邪悪な人たち」は共感を持つ人で、ごく一般の人たちだ。と先に説明しました。
また、鬼になる原因として、幼少期から今までに降りかかった何かしらの危機が関係しているようでした。
つまり、「邪悪な人たち」は生まれた時からもともと鬼だったわけではなさそうです。
心の傷を治せず、向き合うことを捨てて他人を食い物にして生きることは罪に違いありません。鬼が何百人と人間を殺してきたことに炭治郎は心底怒り、ためらいなく首を落します。
しかしそもそも傷を負うようなことがなければ、悲惨な目に遭うことがなければ、人として一生を終えたであろう人たちなのです。
例えば虐待する親ではなく優しい両親の元に生まれていたら?
もしリストラされず、ある程度満足な生活が続いていれば?あるいはすぐに仕事が見つかる経済状況なら?
「元は人間だったんだから」と言う炭治郎の言葉はこのことをよく表しています。
かく言う炭治郎も一度、鬼になり得る危機的状況にあっているのです。
境遇の分かれ道
アニメ鬼滅の刃 1話「残酷」
丹次郎が家族を殺され、唯一生き残っていた禰豆子を背負って山を下りていた時。
鬼になってしまった禰豆子に襲われ、すっかり自我を失った妹に声も届きませんでした。
この場面が丹治郎に訪れた危機です。
あの時、どん底にいた炭治郎が出会ったのが富岡義勇ではなく鬼舞辻無残だったら?
親を選べない子どものように、あの時出会う人を丹治郎は選べません。
一歩違えば鬼になっていたのは炭治郎だったかもしれないのです。
炭治郎は11巻の妓夫太郎との闘いで、鬼の首を切り落とす瞬間に、自分が首を切られる立場になる可能性を見ています。
その境遇はいつだって一つ違えばいつか自分自身がそうなっていたかもしれない状況
それは自分では選ぶことができない分かれ道です。
鬼になることは決して他人後ではありません。
意思選択の分かれ道
アニメ鬼滅の刃 1話「残酷」
丹治郎が危機的状況で出会えたのは幸いにも義勇でしたが、もし失意のどん底で出会うのが鬼舞辻無残だったら我々に希望はないのでしょうか。
例えば非力な子供時代、優しい親ではなく虐待する親に育てられた場合、成すすべもなく自分も親のようになるしかないのでしょうか。
炭治郎と同じ失意の底で、富岡義勇ではなく鬼舞辻無残に出会った人物がいます。
そう、禰豆子です。
禰豆子は人間に戻れるのか
炭治郎と禰豆子は対比になっています。
同じ家族を殺された危機的状況で、炭治郎は富岡義勇に出会い鬼殺隊となり、禰豆子は鬼に出会い鬼になりました。
危機的状況に追い詰められ、自分ではコントロールできない運命によって鬼に出会ってしまった時、鬼にならないためにはどうすればいいのか。
あるいは鬼になってしまっても、人を傷つけない生き方を選び、人間に戻るにはどうすればいいのか。
『鬼滅の刃』は分かれ道で、鬼と出会う運命に行き当たった場合にまで踏み込んでいます。
禰豆子の光の克服 光とは何か?
『平気でうそをつく人たち』の中に奇しくも光として説明されているものがあります。
邪悪な人達は、光ーー自分正体を明らかにする善の光、自分自身をさらけ出す精察の光、彼らの欺瞞を見抜く真実の光を嫌うものである。
平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学ー(M・スコット・ペック)
邪悪な人たちは、自分の問題から目を逸らし、他の人にその罪を着せてしまうことはここまででお分かり頂けたかと思います。
「~のため」「~が悪い」といった正義を隠れ蓑にして自分をも欺いているので、対象を傷つける時の罪悪感がない。
自分の行いを顧みる内省は、自分が行っているその巧妙な責任逃れと見当違いな攻撃、そしてその奥に潜む自分の本当の問題に向き合うことそのものです。
まさに光とは、自分自身をさらけ出す精察の光=自らの考え・言動を、何ひとつ自分自身に隠すことなく省みることであり、
自分正体を明らかにする善の光=省みた自分の考え・行いを善の目で見つめ、問題が自分にあることを認めることである。
それには苦痛が伴います。
『鬼滅の刃』では光を浴びた鬼は皮膚がただれ、激しく苦しみます。
それは真実の光に照らされることによる、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認知することの苦痛ではないでしょうか。
その苦痛から逃れるために、人を傷つけてきた鬼たちです。もちろん耐えきれずに焼き切れ死んでしまいます。
これをどう乗り越えるのか。
禰豆子が光を克服するにあたって、特別な薬が使われている様子はありません。
人間の血によだれを流しつつ食べない選択をする描写があることからも、太陽もとい鬼の克服には禰豆子自身の意思、選択が大きな鍵を握っていそうです。
もちろん鬼になり見境なくなる瞬間に、いつも炭治郎が必死に呼びかけて禰豆子の意識を取り戻させていることも注目すべき点でしょう。
これの意味は周りのサポートですね。
私は今後も、何か人知を超えた万能薬が使われるのではなく、自分の意思の力で禰豆子は人間に戻っていくと予測します。
人間は、自分が思い描く、こうなりたい、変わりたいという意思によってのみ変わることができる生き物です。
ここで言いたいことは、もし自分ではどうすることもできない運命に行き当たったとしても、人間は鬼になる道と鬼にならない道をを選ぶことができるということです。
それは非力な子ども時代に邪悪な親に行き当たってしまい鬼になっても、変わりたいと願い、力の矛先を他人ではなく自分の抱える問題への対処に向けることで、願った通りの人間になれるということであり、
リストラや就職氷河期など理不尽な目に遭っても、「こういう人間でありたい」という自分の意思と選択によって人を傷つけない生き方を選べるということです。
強くなれ 自分の主導権を自分で握るために
子どもは一人では生きていけないため、起こる現実に逃げるすべさえありません。禰豆子が鬼になってしまったのはちょうどその子供のように、鬼舞辻無残を前になすすべがなかったからです。
丹治郎と禰豆子は対比だという話をしましたが、物語冒頭、丹治郎にも鬼を目の前にして鬼にならない選択をするだけの強さはありませんでした。
富岡義勇はそのことを指摘し、丹治郎の弱さを激しく叱咤します。
生殺与奪の権を他人に握らせるな!
みじめったらしくうずくまるのはやめろ
そんなことが通用するならお前の家族は殺されていない!
奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が妹を治す?仇を見つける?
笑止千万!!
人間はいつでも自分という船の船頭です。
船を進めるために、出会う先々で引っ張って下さいと人に頭を下げることしかできない人は、鬼に出会ったとき鬼が進む道に引っ張られてしまいます。
自分が選んだ進路へ漕ぎ出すだけの力を自分で持て!と義勇は言っているわけです。
丹治郎は義勇に助けられた後、修業を重ねて鬼と渡り合えるだけの身体的な強さを身に着けていきますが、これは比喩に過ぎません。強さとは腕っぷしの意味だけではないからです。
例えば経済力も強さの一つです。
収入を自分ではない誰かに頼る場合、どうしてもその人に依存せざるを得なくなります。
専業主婦(夫)が向いていてそれを選ぶ人も、自分を養えるだけの経済力は持っていたほうがいいでしょう。自分を守るという意味においてです。
また、収入源を一つに頼りすぎることも危険を伴います。
これまで日本の会社の多くが副業を禁止してきたのは、何でも言うことを聞くしかない状況にいつも社員を置きたかったからではないかとすら私には思えます。
貯金があることや収入口が複数あることは、今の会社を首になったら終わりだという人に比べて実質的に選べる選択肢を増やしてくれます。
また居場所が学校や会社、家庭以外にもたくさんあるというのも強さだと思います。
居場所が一つしかないと、その居場所が腐り始めたとき自分も共倒れになるしかありません。
大切なのは自立すること、そして一つのものに頼り過ぎないことです。
もちろん助け合わないと生きていけないのが人間なので、頼り、助け合うのは普通です。
それが普通の時ならいいのです。
しかし危機は誰にでも訪れるものであり、第1の境遇の分かれ道は自分では防ぎようのないもの。
第2の分かれ道で鬼にならないために、自分の行動の主導権を自分で握れるくらいには自立し、常により良い道を選択していきたいです。
自分への戒めとして
まとめ
タイトルに、鬼=精神病と書きました。
これは『平気でうそをつく人たち』の中で「邪悪性を精神病と見なすべきである」という著者の主張があったため意図的にそうしました。
虐待をする母親や、ヘイトスピーチをする人を例として挙げてきましたが、「確かに普通じゃないけど、精神病ではないんじゃないの?」と思われる方もおられると思います。
お察しの通り、彼らは今現在病気だとは認識されていません。むしろ彼らに傷つけられる側の人間が、学校で問題行動を起こすなどの形で表面化していることのほうが多いです。
しかし今ある常識や診断基準で病気と診断されないことは「邪悪な人たち」が健常者であることと同義ではありません。
ただ単にこうした人たちの病気に対する定義をまだ我々が考え出していないだけです。
何も「邪悪な人たち」を病気と認知することで、彼らを拘束し自由を奪うべきだと言っているのではありません。
むしろ「邪悪な人たち」が自分に障害があることを認識できないという事実自体が、彼らの病の本質的要素となっているため(自分は悪くないと信じている)、今のままでは彼らは永遠に救われないだろうと思うのです。
子どもを殺してしまって、文字通り犯罪者になってから治療の対象になるのではあまりに遅い。
なんとなく具合が悪いというだけでは手の施しようがありませんが、病気だと診断されたら対処することができます。
精神分裂病や神経衰弱のように認知されることで治療法の研究も進むはずです。
『鬼滅の刃』は鬼に襲われる人を守ると同時に、鬼を救済する物語でもあると思います。
どうか少しでも多くの人が救われますように。
おわりに
『鬼滅の刃』にはまった勢いでずいぶん長く取り留めのないこと書いてきましたが(長すぎるわ)、あくまでこれは私の解釈です。
鬼を「邪悪な人たち」と仮定したらこういう物語の捉え方ができるぞ!と好きに遊んだだけなので深い意味はありません。
これからもわくわくしながら続刊を追って、物語を純粋に楽しみたいと思います。
今後の展開で禰豆子を治すために賢者の石を探す旅が始まったりしちゃったら「ぜんぜんちゃうやんけwwww」って笑ってくれ。
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それでは
以上!!